≪ fragrance ≫



 昨日、隣の部屋に引越してきたのは俺と同じくらいの若い男だった。
 名前は確か瀬川馨(せがわかおる)と言ったか。
 俺と正反対の色白で華奢な男だった。

「ただいま。」

 俺、三橋慈行(みつはしよしゆき)は26歳で中堅企業のサラリーマンをしている。
 昔から外へ出かけることが好きで、休みとなれば友達と何処かへ出かけていた学生時代。
 そのせいかどちらかと言えば、肌は黒いほうで、体格も悪くはなかった。

 俺は今、東京に出てきて一人暮らしをしている。
 ただいまと言っても迎えてくれる人はいないが、何となく言ってしまう。
 食事は同僚と外で済ませてきてしまった。
 俺は手短にシャワーを済ませて、缶チューハイ片手にベランダへ出た。

「はぁー疲れたー。」

 この間、梅雨入りの話が出ていたというのに雨なんか降りやしない。
 毎日暑い日ばかり続いて、営業でまわるには少し辛かった。
 空を見上げれば珍しく星が綺麗で、明日も晴れて暑くなるのかなぁと思ってしまう。

「あれ?」

 そんなことを考えていると、隣の部屋―瀬川の部屋のベランダのドアが開いて、
 瀬川が出てきた。
 何となく目が合ってしまって、お互いに挨拶する。

「こんばんわ。」
「こんばんわ。」

 瀬川の手にはノートと紙と色鉛筆が数本握られていた。
 しばらくすると瀬川はノートを下敷きにしながら、絵を描き始めた。

「何、描いてるんですか?」
「ここから見える景色ですよ。」

 俺が尋ねると、瀬川は優しい口調でこう言った。
 瀬川の絵はそれからまもなく完成したようだった。

「絵見せてもらってもいいですか?」
「えぇ、どうぞ。」

 瀬川はベランダの一番端までやってきて、俺に絵を見せてくれた。
 それはこの短時間で描いたとは思えないほど、丁寧で綺麗な仕上がりだった。

「上手いな・・・。」
「そんなことないですよ。」
「何で絵を描いてるんですか?」
「絵日記、作ってるんです。」

 瀬川は恥ずかしそうに、けれど笑ってそう言った。

「俺、幼稚園の先生やっているんです。それで子供たちに毎日絵を描いてるうちに、
 せっかくだから描いた絵を絵日記にして残そうかなぁって思って。」
「へぇ。」
「旅行先とかでも描いたりするんですよ。」

 確かに言われてみれば、瀬川は幼稚園の先生が似合いそうだった。
 きっと絵が上手なことで人気な先生なんだろうと、俺は想像した。

「三橋さんは何のお仕事をなさっているんですか?」
「営業セールスマン。」
「言われてみるとそんな感じがしますね。」

 それから瀬川と俺はしばらく互いのことを話した。
 瀬川はどちらかと言えば内気なタイプだったが、話しにくい相手ではなかった。
 むしろ毎日子供達の話を聞く側にいるせいか、相槌を打つのが上手くて話しやすかった。

「もうこんな時間か。」

 リビングの時計を見れば、もう22時をまわっていた。

「結構話していたんですね。」
「そうだな。」
「じゃぁ、今日はそろそろお開きにしますか?」
「あぁ、機会があったら絵日記を見せてくれ。おやすみ。」
「おやすみなさい。」

 別れ際、やわらかな夜風に乗せられ運ばれてきた瀬川の香りに俺はドキッとした。
 それは何ともいえない、甘さとかぐわしさをまとった香りだった。







 それから俺と瀬川はよく夜のベランダで話すようになり、親しくなっていった。
 そのうちに休みの日には部屋を行き来するようにもなった。

「三橋さん、外食ばかりだとよくないですよ。」
「そうは言っても料理できないしな。」
「俺、結構料理得意なんですよ。」
「マジで?」
「職場が女の人ばかりだから、色々教えてもらっちゃって。」
「あぁ、そっか。」

 瀬川は笑うとえくぼが出来て可愛い。
 同じ男でもこんなに違うものかと思ってしまうほど、俺と瀬川は違った。
 
「瀬川、お前髪染めてんの?」 
「いいえ。よく言われるんですけれど、生まれつきなんですよね、この茶色。」

 瀬川は自分の髪を触りながら言った。

「色素が薄いみたいです、俺。」
「外国の血とか混じってないの?」
「多分混じってないと思うんですけどね・・・。」

 瀬川は苦笑しながらそう言って、冷蔵庫のほうへ向かった。

「三橋さん、甘いものお嫌いですか?」
「いや、別に。」
「アイスあるんですけど、食べます?」
「あぁ、食う。」

 小さなカップアイスとスプーンを持って瀬川が戻ってきた。
 俺の隣に座って、アイスとスプーンを俺に渡してくれる。

「おいしそう〜」

 隣でアイスを食べる瀬川をチラッと見ると、俺の胸がまたドキッと高鳴った。
 蓋を開けるときについたらしき指先のアイスをペロッと舐める瀬川が目に入ってしまったからだ。
 ときどき、瀬川の行動に俺の胸はドキッと高鳴ってしまうのだ。
 
「おいしいな。」
「そうですね。あ、何か飲みますか?」
「あ、あぁ。」

 コップに入った麦茶を俺の前に置いてくれる瀬川。
 カランと氷が鳴って、水滴が一筋コップの側面を伝った。

「三橋さん?」
「え、あ・・・。」
「顔赤いですけど、大丈夫ですか?クーラーの温度下げますか?」
「いや、いいよ。」

 瀬川は俺の気持ちに気づいているのかいないのか・・・。
 俺の瀬川に対する好意は日に日に増しているのが自分でもわかっていた。
 わかっていてもそれだけではどうしようもない。
 とにかく今は自分を騙し続けるしかなかった。








 7月半ばのある日、俺は瀬川に誘われて美術展に行った。
 そのお返しに、次の週末に俺は瀬川を誘って水族館へ行った。
 水族館でも瀬川は絵を楽しそうに描いていた。

「楽しかったですね。誘って下さってありがとうございました。」
「いやいや。この間、美術展に連れていってもらったしさ。」
「絵は好きじゃないと面白くないでしょ?すいません、無理矢理誘って・・・。」
「俺はあの絵好きだな。無理矢理だなんて思ってないぜ。」
「そうですか?今日描いた絵は子供たちにあげる約束しているんですよ。」
「きっと喜ぶだろうな。」

 瀬川が何枚も絵を描いていたわけがわかった。
 水族館で描く絵なら子供たちもわかるし、喜ぶだろう。

「三橋さん、良かったらうちに寄っていきませんか?」
「いいのか?少し疲れているみたいだけど。」
「大丈夫です。三橋さんこそお疲れでしたらいいんですけれど。
 見せたいものがあるんです。」

 もうすっかり馴染み深くなってしまった瀬川の家に上がる。
 瀬川は俺に冷たい麦茶を出してくれて、部屋からファイルを持ってきた。

「これ、るみちゃんっていう女の子が俺にくれたんですけれどね・・・。」

 瀬川が見せてくれた絵には人間が二人描かれていた。
 
「こっちが俺で、こっちが三橋さんだそうですよ。」

 瀬川は微笑みながらそう言った。

「何でその子が俺の絵なんかを?」
「この間、美術展に行ったときに俺たちのこと見たらしいんですよ。
 "かおるせんせいとおともだちのひと"って・・・・。」
「へぇ、見られてたなんて気づかなかったなぁ。」
「でね、ここ見てください。なんか俺たち手繋いでるんですよ。」
「本当だ。手なんか繋いでなかったよな?」
「繋いでませんよ。それをね、るみちゃんにきいたら
 "おともだちとはてをつないであるこうねってせんせいいってたでしょ"だって。」
「幼稚園生くらいならいいけどな。」
「俺たちが繋いでたら色々ありますよね。」

 瀬川がハハハと笑うと、それに俺もならった。
 その後、妙な沈黙ができてしまい互いに目が合わせられなくなってしまった。
 
「瀬川。」

 何とかこの雰囲気から脱しようと、俺は瀬川の名前を呼んだ。

「はい。」

 返事をされても意味があって呼んだではなかったから、後の言葉が続かない。

「何か?」
「いや、その・・・」
「なんか顔色悪いですよ。疲れてるんじゃないですか?」

 瀬川が俺の顔を覗き込むようにして、俺との距離を縮めた。
 俺の心臓は壊れそうなほど激しく波打っていた。

「三橋さん、大丈夫ですか?」

 瀬川は更に俺との距離を縮め、指先が頬にそっと触れた。
 それと同時にあの香りが、俺の鼻先をかすめた。

「瀬川っ!」

 このままでいるともしかしたら俺の中の理性が消えてしまうかもしれない、そう感じた。
 俺が叫んでも、瀬川はあまり動じていないようだった。
 
「三橋さん、もしかして・・・・」

 俺は何も言えなかった。
 もう何も言えなかった。言えばすべてが嘘になってしまうからだ。

「俺と同じなんでしょう?」

 瀬川の意外な言葉、そしてその後のキスが俺の理性を奪い去ってしまった。
 俺は床に瀬川を押し倒し、そのまま彼を抱いてしまった。








 その日は結局、夜になってから自分の部屋に戻った。
 瀬川とは何だか気まずくなってしまい、俺は自分のしたことを後悔した。
 最初にキスをしてきたのは瀬川のほうだ。
 しかしだからといって瀬川が俺に抱かれることを望んでいたとは限らないのだ。
 それを確かめずに、自分のエゴで俺は瀬川を抱いたのだ。

「瀬川、ごめん・・・・。」

 俺はあまり眠れないまま、次の日会社に出勤した。
 それから一週間、俺と瀬川は一言も口を聞かなかった。






 7月最後の土曜日。
 俺が朝起きて、新聞をとりに郵便受けを覗くと、1冊のノートが入っていた。
 それは瀬川が絵日記にしているノートだった。

「・・・・・。」

 パラパラとめくると、沢山の絵がノートに貼られ、その下には数行の短い文が記されていた。
 その最後のページには、絵ではなく文章だけが記されていた。

 
 三橋さんへ
 
 あの日以来、お互いに気まずくなってしまいましたね。
 三橋さんの今のお気持ちは、俺にはわかりませんが、
 俺の気持ちはあの日と全く変わっていません。
 むしろ、あなたに会えないことで気持ちが強くなっていっているようです。
 俺はしばらく旅行に行ってきます。
 幼稚園のほうも夏休みに入り、長い休みが頂けたので・・・。
 旅行はこれと同じノートが俺の絵でいっぱいになったら終わりにしたいと思っています。
 その旅行中に、俺は自分自身であなたへの気持ちともう一度向き合ってみようと思います。
 もし俺のことが嫌いになったのなら、このノートは捨ててしまって下さい。
 俺が旅行から帰ってきた日に、きっとあなたの家を訪ねるでしょうが、
 嫌でしたら邪険に扱ってくださって構いません。
 俺はあなたが好きで仕方がないのです。
 その気持ちだけでも受け止めていただけたら、俺は十分です。
 このような勝手なことをしてすいません。
                               
                                 瀬川 馨


「瀬川。」

 新聞とそのノートを持って、俺は瀬川の部屋へ向かった。
 瀬川は本当にいなかった。
 俺はただ呆然と、その場に立ちつくしてしまった。

 それからしばらく俺は不安な日々を送ることとなった。
 瀬川の気持ちが変わってしまったら、そう思うといてもたってもいられなかった。
 瀬川のあの甘くかぐわしい香りが何度も思い出されて仕方がなかった。
 何もできない自分に腹が立ち、幼稚園生くらいの子供を見るたびに憂鬱になってしまった。
 あのノートがいっぱいになるには多分1ヶ月くらいかかるだろう。
 もしくはそれ以上かかるのかもしれない。
 あと最低でも2週間、俺は瀬川のいない生活に耐えなければならないのだ。

「あぁ、俺は何をしているんだ。」

 そう言わずにはいられなかった。
 そんなときインターホンが鳴って、俺はベッドから体を起こして玄関へと向かった。

「はい?」
「三橋さん。」

 それは紛れもなく瀬川の声だった。
 
「瀬川!」

 俺が慌ててドアを開けると、目の前には瀬川が立っていた。

「ノート、いっぱいになる前に戻ってきてしまいました。
 これ以上、あなたから離れていることに耐えられなかったんです。」
「瀬川、俺・・・・。」

 すぐに言葉が出てこなくて、俺は黙って瀬川を抱きしめた。

「三橋・・・さん・・・。」
「俺の気持ちも変わらない。だからもうどこにも行かないでくれ。」

 ドラマチックな台詞でも恥ずかしいなんて思わなかった。

「・・・・はい。」

 瀬川の頬が少し赤くなる。
 俺はたまらなくなって、玄関先だというのに唇を重ねてしまった。

「ん・・・・」

 こうなってしまったらもう止めることはできなかった。
 俺は瀬川を部屋へ入れ、あの日と同じように抱いた。
 いや、あの日と同じようにではない。
 あの日よりも満たされた気持ちで、優しく瀬川を抱いた。
 瀬川の香りは出会った頃と変わらず、甘くかぐわしいものだった。








「慈行さん〜!」

 俺が営業の途中で、馨が勤める幼稚園の前を通ると、瀬川が声をかけてきた。
 あれから俺たちは名前で呼び合うようになった。
 家は今までのままだが、週末はどちらかの家に泊まることになっていた。

「おぉ、頑張ってるなぁ。」

 馨が俺のほうへパタパタと走ってくると、子供達が何人かついて来た。

「かおるせんせい、このひとだぁれ?」
「ん?先生のお友達だよ。」

 子供達に馨は笑って嘘をついた。

「あ、るみしってるよ。まえ、るみがえをかいたひとでしょ?」
「そうだよ。よく覚えてるね。」
「おともだち?かおるせんせい、このひとのことすき?」
「大好きだよ。」

 無邪気な子供達が馨は可愛くて仕方がないようだった。

「嫉妬しないで下さいね。」
「し、してねぇよ!」
「せんせい、しっとってなぁに〜?」
「なんかこのひとおこってるよ〜。」
「怒ってないよ。でもね、先生が皆とばっかり話しているから嫌なんだって。」
「おい、馨。」
「じゃぁせんせいとおともだちがいっぱいおはなしできるようにしてあげる。」

 そう言って子供達は遊具のほうへと散っていった。

「もう、子供に気を使わせるなんて・・・」
「な、何だよ、まったく・・・。」
「嫉妬してくれないんですか?」
「・・・・するに決まってるだろ。」
「良かった。今日、慈行さんの家行ってもいい?」
「あぁ、構わないぜ。」

 抱きしめてキスしたい衝動を必死に抑えた。

「お仕事中でしょ?」

 馨にもそう釘を刺されてしまった。
 そう俺は今、営業の途中だったんだ。

「そろそろ行くからな。」
「うん、仕事頑張ってね。」
「お前もな。」

 手を振って馨と別れ、俺は営業先へ向かった。





 仕事が終わると俺はまっさきに家に帰った。

「ただいま。」
「おかえりなさい。」

 今の俺にはおかえりなさいと言ってくれる人がいる。
 
「今日はカレーで〜す。」
「うまそー。」

 男同士とか、ほとんど悩むことはなかった。
 先のことも悩まないようにしていた。
 今の幸せを感じるだけで、お互いに満たせれていた。

「馨、好きだよ。」
「俺も慈行さんが好き。」

 食事中だというのに、新婚さんよろしくそんなことを言い合う。
 これが今の俺達の日常で、最高に幸せな生活。

 馨と会えて良かった、俺は改めてそう思った。                 
 


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