見たくない。もう何も見たくない。

 話したくない。もう誰とも話したくない。

 そう思ったら、目が見えなくなった。

 そう思ったら、口が聞けなくなった。










 空谷の足音―クウコクノアシオト―










 


 都会のビル街、薄汚れた空気の中を銀色の小さな車が疾走していた。
 運転しているのは、愬夜(サクヤ)という男。
 瞳の色は銀色で、髪もそれに合わせて銀色に染めた。
 車に関してもそうだが、銀色を一番好みの色としているようだ。
 職業は、精神科医。とは言っても自分の病院は持たずに、不定期に依頼を受けて仕事をしている。
 今日も依頼を受けて、郊外にある自宅からわざわざやってきたのだった。
 今回の依頼人は昔から付き合いのある友人、漣(レン)からのもので、知り合いの少年を
 しばらく預かって欲しいというものだった。
 愬夜は昨日の漣との電話を思い出していた。

「愬夜、仕事の依頼をしてもいいですか?」
「内容による。」
「精神的ショックで目が見えなくなり、口が聞けなくなった12歳の少年を、
 貴方にしばらく預かってもらいたいんです。」
「何で俺が?」
「貴方なら彼を治せると思いまして。」
「・・・引き受ける。その少年について詳しく教えろ。」
「ありがとうございます。その少年は―」

 その少年は、1ヶ月前に実の父親によって目の前で母親と姉を殺されました。
 父親はその直後に、これも彼の目の前で自殺。
 大酒飲みでクスリにも手を出していた父親は、よく家族に暴力をふるっていたようで、彼の体にも数箇所
あざのようなものがありました。
 今は母方の伯母に引き取られていますが、心を閉ざしきっている彼とコミュニケーションが取れず、困っているそうです。
 
 漣の言葉はこう続いていた。
 出来すぎているほどの不幸を被った少年―四季(シキ)を愬夜は今から迎えに行くのだ。
 漣から言われた通りに道を進むと、大きな屋敷に辿り着いた。
 愬夜が車から降りると、すぐに玄関から漣と伯母とおもわれる女性がでてきた。

「愬夜、こちらは伯母の美郷(ミサト)さんです。」
「初めまして。貴方のことは漣さんのほうから伺っております。どうか四季を宜しくお願いします。」
「愬夜と申します。さっそくですが・・・」
「四季は二階におります。案内いたしますわ。」

 3人は階段を上り、突き当たりの部屋のドアを開けた。

「四季、お客様よ。」

 四季と呼ばれた少年は、美郷の声に反応して顔をあげた。
 
「四季くん。」

 漣が名前を呼ぶと、少し嬉しそうに微笑んで立ち上がり、声を頼りに漣のほうへと歩いてきた。
 どうやら漣のことは知っていて、少しではあるが心を開いているようだった。

「四季くん、今日は君に紹介したい人がいるんだ。」

 その漣の言葉を聞くと、四季はいぶかしげな表情を浮かべると同時に愬夜の存在に気づいた。

 "だれ?"
「この人は愬夜というんだ。四季くん、君はこれからしばらくこの人と暮らすことになる。」

 漣がそう言うと、四季は不思議そうに首をかしげた。
 
 "何で?"

 その様子に漣が答えようとしたが、それよりも先に愬夜のほうが口を開いた。

「お前は勉強しに俺のところへ来るんだ。」
 "何の勉強?"
「自分自身の勉強さ。」

 愬夜と四季の間でのやりとりは、漣と美郷には通じないものだった。
 四季の表情だけで、愬夜は四季の考えを読み取り会話をしている。
 表情から人の考えを読むことができる、漣が愬夜を選んだ理由はこれだった。

「早めに出発の準備を。」

 それだけ言うと、愬夜は車へと戻ってしまった。
 
「ぶっきらぼうな人ですが、根は優しい人なんですよ。」
「あの方、四季と初めて会ったのに普通に話していらっしゃったわ。」
「それは彼の特技ですから。だから彼には嘘がつけないんです。」

 言われた通りに仕度を早めに済ませて、四季は愬夜の車に乗り込んだ。
 
「いってらっしゃい。」

 愬夜は漣に向かって軽く手をあげ、別れを告げた。
 2人を乗せた銀色の車は、ビル街を抜け、やがて森の中へと走っていった。
 
「着いたぞ。」

 数時間、車を走らせて着いた愬夜の家は一人で住むにはあまりにも大きなものだった。
 四季が車のドアを開け外へ出ると、愬夜の手が差し出された。

 "ありがとう"
「どういたしまして。」

 家に入ると、こげ茶色の大きな猫が愬夜の足に擦り寄ってきた。

 "何かいる。"
「俺の猫だ。名前は金柑(キンカン)だ。」

 金柑は四季などには目もくれず、さっさと家の奥へと戻ってしまった。
 それから愬夜は家の中を案内し、四季に部屋の配置を覚えさせた。

「俺が見つからないときは、外のインターホンを鳴らせ。いいな?」
 "わかった"
「それでも見つからなければ、寝ているか外にいるかだ。」
 "そういうときはどうするの?"
「諦めて待ってろ。」

 四季は納得したような、納得していないような顔をしていた。
 愬夜は四季の荷物を、四季の部屋へと運び込んだ。
 玄関から入ってすぐのあまり大きくはない部屋、ここが今日から四季の部屋だ。

 銀髪でぶっきらぼうな男、愬夜と、目が見えず口もきけない少年、四季との生活が始まった。










 休みの日になると愬夜の家にはひっきりなしに電話がかかってくる。
 精神的な病に苦しむ人、またその家族からの相談の電話だ。
 
「はい、もしもし・・・。」

 その電話が依頼に繋がることもあるが、四季が来てからは依頼のほうは断り続けていた。
 愬夜が電話の応対に忙しくしている横で、四季は座って点字の本を読んでいる。

「四季。」
 "なに?"
「そろそろ飯にするぞ。」

 今日のメニューは炒飯とサラダ。もちろんそれらは愬夜が作ったものだ。
 皿の位置だけ分かれば、四季は愬夜の助け無しでも食事をすることができた。
 四季はゆっくりではあるが、炒飯をレンゲですくって口へ運んだ。 

 "おいしい。"
「どうも。」
 "マヨネーズとって。"

 四季がテーブルの上にいくつか置かれている調味料を指差して愬夜を見つめた。
 どうやらサラダにはマヨネーズをかけたいらしい。

「ん?これか?」

 愬夜が手に取ったのは、イタリアンドレッシングだった。
 違う、と四季が首を横に振る。

「じゃぁ、これか?」

 次に愬夜が手に取ったのはマヨネーズ・・・の横にあるフレンチドレッシングだった。
 
 "違う!マヨネーズ!"

 四季はブンブンと首を横に振り、愬夜に自分の意志を伝えようとした。
 そんな四季に向かって愬夜は溜息をついてこう言った。

「四季。お前、口は動かせるんだろ?」
 "・・・・うん。"
「だったら動かせ。俺はその口を読む。」
 "マヨネーズ。"

 四季の口が「マヨネーズ」と動く。
 それを見て、愬夜は迷うことなくマヨネーズを手に取って四季に手渡した。

「マヨネーズか。」
 "ありがとう。"
「これからも口は動かせ。今までそのことに気づかなかったのか?」
 "そういうわけじゃないよ。"

 四季は下を向いてシュンとしながら首を横に小さく振った。
 
「口を開きたくなかったか?」
 "うん。そう。"
「お前は何故俺のところにいる?見えるようになるため、話せるようになるためだ。」
 "うん。"
「そのために何かを変えろ。そうしなければお前はずっと今のままだよ。」
 "ごめんなさい。"

 四季はしっかりと口を動かして、そう言った。
 
「それでいい。」

 愬夜はテーブルの向かい側から四季の頭を撫でた。
 四季は上目遣いで愬夜を見上げて、安心したようにふわっと笑った。 








 その日の深夜。
 正確にはもう次の日になってしまっている時刻だが。
 誰かが廊下を歩く音、そしてドアを開ける音で愬夜は目を覚ました。

「四季、どうした?」

 愬夜はベッドから起き上がり、部屋の入口にたたずむ四季の元へと歩み寄った。
 四季の体は小刻みに震え、頬には幾筋もの涙の痕があった。

「どうした?怖い夢でも見たか?」

 四季は小さく頷くだけだった。
 愬夜は震える四季の肩を抱き、自分のベッドへと連れて行った。

「怖いならここで寝ろ。」
 "寝たくない。"

 昼間のときから、四季はちゃんと口を動かして話すようになっていた。

「何でだ?」
 "寝たら、また同じ夢、見そうだから。"
「じゃぁ起きてろ。」
 "うん・・・。"

 愬夜は四季の隣に同じように座ると、ベッドの上で上半身だけ起こして、四季と自分の足元に布団をかけた。
 そして枕元の明りをつけ、手を伸ばして机の上の本をとると静かに読み始めた。
 四季はそんな愬夜にすがるかのようにぴったりと体をくっつけていた。

 "ごめんなさい。"

 あれから午後も電話の応対に追われ、愬夜が疲れていることを四季はわかっていた。
 わかっているからこそ、自分と一緒に起きていてくれるということが、すごく申し訳なく思えてしまったのだ。

「謝ることじゃない。」

 愬夜はそう言うと、すぐに目を本へと戻してしまった。
 四季は愬夜の横顔をしばらくの間、黙って見つめていた。
 もちろん四季の視界は真っ暗なのであるが、何となく四季はそうしてしまった。

「寝れそうだったら寝ろ。」

 愬夜の隣にいることで安心したのか、四季はそれからしばらくして眠りについた。
 自分に寄りかかりながら静かに寝息をたてる四季を眺める愬夜は、優しい目をしていた。
 まるで愛しい何かを見つめるような、そんな優しい目だった。








 愬夜と四季が一緒に生活するようになって2週間が過ぎた頃。
 前よりは精神的に落ち着いたとはいえ、四季の目はまだ見えないままだったし、口は動かすだけで声は出なかった。
 そんな四季もさりげない愬夜の優しさに触れ、自分も何かしたい、そう思うようになっていた。

 "ねぇ、愬夜。"

 今さっき届けられた手紙に目を通していた愬夜の袖を四季はひっぱった。

「何だ?」
 "俺に手伝えること・・・ない?"
「お前に手伝えること?」
 "大したことできないけど。"
「手紙の仕分け・・・できるか?」
 "手紙の仕分け?"
「朝と夕方、郵便受けから取ってきた郵便物を封筒と葉書に分けて、上下をそろえる。できるか?」

 郵便受けは玄関から真っ直ぐ10歩くらい歩いたところにあるから、四季でも辿り着くことが出来る。
 そこから郵便物を取ってきたら、まず厚みで封筒と葉書に分ける。
 それから切手の位置で上下をそろえて、リビングの机の上に置いておけばよいのだ。

 "多分、できる。"
「じゃぁ宜しくな。」

 愬夜のために何かが出来ることが嬉しいのか、四季はうきうきとした表情を浮かべた。
 そんな四季の頭を愬夜はくしゃくしゃと撫で、残りの手紙に目を通し始めた。










 それから3日経った夜のこと。愬夜のもとに漣から電話がかかってきた。
 その日、四季は早々自分のベッドに入って寝てしまっていた。

「もしもし、どうですか?四季くんの様子は?」
「今は寝てる。」
「随分早いですね。」
「今日、金柑を風呂に入れるのを手伝わせたんだ。そしたら疲れたみたいだな。」
「そうなんですか。」

 電話の向こうの漣はそれを聞いて、思わず笑みを浮かべてしまった。

「具合のほうはどうなんですか?」
「悪くはない。口を動かして自分の意志を伝えようとするようになったし、今はちょっとした手伝いもできる。」
「金柑のお風呂ですか?」
「それもそうだが、毎日郵便物の仕分けをしている。」
「四季くんに出来るんですか?」
「あぁ、目が見えなくても封筒と葉書の区別はつくし、上下は切手で判断しているみたいだな。」
「頭いいですね。」
「まったくな。」
「目が見えるようになるのと話せるようになるの、どっちが先だと思いますか?」
「話せるようになるほうが早いんじゃないか?」
「四季くんが話せるようになったら電話下さいね。」
「あぁ、わかった。」

 それから他愛もない会話はを交わして、愬夜は漣との電話を切った。
 愬夜が四季の様子を見に行くと、静かな寝息をたてて眠っていた。
 布団を掛けなおしてやりながら愬夜は思った。
 自分はこの12歳の少年に、惚れている・・・・・・










 愬夜の予想は外れた。
 四季は話せるようになる前に目が見えるようになったのだ。

 "愬夜、これ見て!!"

 目が見えるようになって、四季がこなせる仕事は増えたし、何でも一人で出来るようになった。
 それに四季は暇なときには絵を描いて、それを愬夜に見せたがった。

「駄目だな。ここのバランスが悪い。」

 愬夜が絵を指差して指摘すると、四季は頬を膨らませて不服そうにしていたが、
 近づけたり離したりして何度も自分の絵を眺めるうちに、自分でもそのことに気づいたらしい。
 別の紙を持ってきて、もう一枚同じような絵を描き始めた。
 四季が描いているのは庭に咲く草花や猫の金柑の絵である。

「できたか?」
 "もうちょっと。"
「さっきよりマシだな。」
 "マシって何だよぉ?"

 その日、愬夜は四季を連れて市街地にあるデパートへ行った。
 いつも通りの食料品の購入に加えて、今日は水彩絵の具と筆とスケッチブックを買った。
 愬夜の家にあったのは、落書き帳代わりの大きめのメモと色鉛筆だけだったからだ。
 新しいものを買ってもらい、四季はご機嫌そうだった。












 "ねぇ愬夜、これ誰?"

 ある夜、四季は愬夜から借りた本の中にあった写真を手にしてそう尋ねた。
 ベッドで横になっていた愬夜は、少し面倒臭そうに体を起こして答える。

「・・・・・兄貴。」
 "お兄さん?今、どこに住んでるの?いくつ?"
「住んでるのは天国、生きてたら34だ。」
 "・・・・ごめん。"
「別にいい。」
 "・・・・ねぇどうして、死んじゃったの?" 

 四季は遠慮がちに尋ねた。

「事故。」
 "いつ?"
「10年前。」

 それからぽつりぽつりと、愬夜は兄、清斗(さやと)のことを話し始めた。

「兄貴は本当にいい人だった。俺が14歳のときに両親が死んで親戚の家に引き取られたんだけどな、
 どうも折り合いが悪くて、学校にも行かなくなってな。そんな俺を心配して兄貴は仕事を始めた。
 それから金が少し溜まったら俺を連れてこの家に来た。」
 "お兄さんといくつ差?"
「8歳だ。それから兄貴と俺の二人暮し。俺は学校に行くようになったし、そこで漣の奴とも出会えたしな。
 でも兄貴が事故で死んでからは俺は精神科医になるための勉強を始めた。
 精神科医になりたいっていうのが兄貴の夢で、俺がそれを受け継いでやろうと思ったんだ。
 それから俺の瞳の色を素敵だと言ってくれたのも兄貴だった。
 それまで俺は銀色が、この瞳の色が大嫌いだった。」 
 "何で?すごく綺麗な色なのに・・・・。"
「人間っていうのは他人と同じようでありたいんだよ。他の奴は黒とか青だったからな。
 まぁ、兄貴も珍しい色で・・・金柑みたいな茶色だったな。
 とにかく俺は兄貴が大好きで仕方がなかった。馬鹿みたいに好きだったんだ。」

 一つひとつ思い出すように話す愬夜の頬に涙が伝った。

「俺は・・・あんなにも人を好きになったことなんてなかった。」
 "泣かないで。愬夜、泣かないで。"

 愬夜の横たわるベッドの上に跪くようにして、四季はその細い指で愬夜の頬を撫でた。
 
「四季・・・・」

 愬夜は四季の腰を引き寄せ、頭を優しく撫でた。
 このとき四季の心の中には、愬夜を慰めようと必死になる気持ちと清斗に対する小さな嫉妬があった。
 四季自身、それを嫉妬だとはまだ気づいていなかったが・・・













「今日は出かける。四季、お前も一緒に来い。」
 "俺も?"
「そうだ。早く仕度しろ。」

 行く先を知らないまま、四季は愬夜の車に乗り込んだ。

 "ねぇ、どこ行くの?"

 四季の口の動きをバックミラー越しに読み取りながら、愬夜はそっけない返事を返す。

「着いたらわかる。」

 30分ほどして着いた先は、小さな墓地だった。

 "お墓・・・?"
「今日は兄貴の命日だ。」

 振り返りもせず歩いていく愬夜の後に黙って四季は続いた。
 小さな墓地の一番奥に、清斗の墓はあった。

「兄貴。久しぶり。」

 その墓石の前に立った瞬間、いつもの愬夜とはまるで別人だ、と四季は思った。
 今の愬夜は優しさを身にまとい、甘えているとも言えるほどに安心しきった態度だった。
 いつも愬夜が優しくないわけではないが、人に甘えを見せる態度などめったにとらない。
 この間涙を流したときだって、話題は清斗のことであったことを今更ながらに四季は思い出していた。

「こいつは四季っていうんだ。今、仕事のほうで預かってる。」
 "初めまして、こんにちは。"

 四季はそう呟きながら、墓石に向かって頭を下げた。
 愬夜が掃除を始めたので、四季は花を摘みに野原へ向かった。
 名前のわからない花を摘んでいる間、四季の頭の中では清斗の顔が浮かんだり消えたりを繰り返していた。

 "はい、お花。"
「お、綺麗だな。兄貴、四季が摘んできてくれた。」

 昔の思い出や今のことを兄に向かって話す愬夜の横に四季はちょこんと座っていた。
 その心の中にはなんだかモヤモヤしたものがあり、あまり気持ちが良くなかった。
 愬夜が「兄貴」と言って微笑むたびに、四季の中のモヤモヤは大きくなる一方だった。

「四季どうした?」

 愬夜の言葉など耳に入らないかのように、四季は愬夜に背を向けて立ち上がる。

「おい、四季!どこへ行くんだ!?」

 四季はそのまま愬夜の制止を振り切って走り去った。
 一度は立ち上がったものの、愬夜は四季を追おうとはしなかった。
 ただ小さく溜息をつき、兄に話しかけるのを再開したのだった。











「どうしてあの時、急にいなくなったりした?」

 車の横に座り込んで愬夜を待っていた四季を車に乗せ、愬夜は家に帰った。
 帰る途中、二人は一言も口を聞かなかった。
 家に帰ってから、愬夜は四季を問いただした。
 車の中でそうしなかったのは、四季が謝ってくるのを期待してのことだった。

 "・・・・・・・・・。"

 四季は何も言わない。
 それどころか、俯いて愬夜と目を合わせようともしなかった。

「四季!」
 "わかんない。"
「わからない?どういう意味だ?」
 "そのままの意味。"
「自分のことだろう?なんでわからない?」
 "わかんない・・・・自分でもわかんないの!"
 
 四季はそう叫んで、自分の部屋に閉じこもってしまった。
 無論、その叫びは声にはなっていなかったが。

「四季!」

 普段なら勝手にしろと吐き捨てて終わる愬夜だったが、この日はそうもいかなかった。
 自分は四季に何をした、と愬夜は幾重にも考えを巡らせ続けた。
 












 その夜、愬夜は眠る気になれず一人で本を読んでいた。
 しかし活字は目の前を流れていくばかりで、頭の中には何ひとつ入っていかない。

「ちっ・・・・・」

 舌打ちをして、本を机の上に投げつける愬夜。
 投げられた本は机に当たり、バサバサとページを騒がせながら床に落ちていった。
 その本を拾う気にもなれず、かといって眠ることもできない愬夜は苛立ちをあらわにしていた。

 トン      トン

 そんな時、控えめなノック音がした。
 愬夜は立ち上がって、静かにドアを開けた。

「どうした?」

 前の時と同様、四季は怖い夢でも見たのか泣きながら体を震わせていた。

「大丈夫か?」

 四季の肩を抱きかかえ、愬夜は自分のベッドまで連れて行った。

「また怖い夢か?」
 "うん・・・・。"

 小さく頷く四季の背中を愬夜は優しくさすってやった。

 "愬夜・・・・"
「何だ?」
 "ごめんなさい。"
「もういい。」

 ふと、愬夜と四季の目が合った。
 ドクン ドクンと愬夜の心臓が騒ぎ始める。

「(何に緊張しているんだ、俺は・・・)」
 "愬夜。"
「何だ?」

 四季の口が動く。
 何かを必死に訴えるように動く唇から愬夜は目が離せなかった。

「四季・・・・」
「す、き・・・・」




 四季が最初に取り戻した言葉は "好き" という、とてもとても素敵な言葉でした。




「愬夜・・・・好き・・・」
「・・・・四季。」

 二人の間には音のない会話が交わされた。
 愬夜が四季を抱き寄せると、互いの鼓動が聞こえるまでに二人の距離が縮まった。

「お前の好きっていうのはこういうことなのか?」
「そう・・・だよ・・・。」
「俺と同じか。」

 驚きを見せる四季を抱きしめたまま、愬夜はその唇をゆっくりと塞いだ。
 決して深くはないものの、そのキスには愛情というものがいっぱいに溢れていた。
 名残惜しそうに唇を離した四季は、泣いていた。

「愬夜・・・・・。」
「何で泣いてるんだ?」
「わかなんない・・・でもすごくあったかい・・・」

 ずっと失くしていた温かさで四季の心が埋まっていく。
 愬夜がいて良かった、四季は心からそう思った。















「漣さーん。」
「四季くん、久しぶり。元気そうで何よりだよ。」

 四季が話せるようになったのを聞いて、漣が愬夜の家を訪ねてきた。

「四季くんを美郷さんのもとに帰さないとはどういうことです?」
「四季は俺の助手をすることになった。」
「それだけですか?」
「それだけだ。」

 漣は冷えた麦茶―これも四季が運んでくれたものだが、を口元へ持っていく。
 氷がカランと澄んだ音をたてて動いた。

「一気に明るい子になりましたね。」
「元はあぁだったんだろ。」
「可愛いですか?」
「可愛いとは思わねぇな。」
「また嘘ばっかり。」
「嘘じゃねぇ。」
「目が泳いでいるのは僕の気のせいですか。」
「あぁ、てめぇの気のせいだ。」

 漣は愬夜に気づかれないよう、必死に笑いをこらえた。

「ねぇ漣さん、見てー。」
「この絵どうしたの?四季くんが書いたの?」
「そう、俺が書いたの。誰だと思う?」
「愬夜。」
「そう、愬夜。なかなか上手いでしょ?」
「うん、すごく上手だよ。愬夜、幸せ者ですね。」
「さぁ、どうだか。おい、四季。」
「何?」
「こいつの顔も書いてやれ。」
「漣さん?うん、わかった。」

 四季にまじまじと見つめられて、漣は少し恥ずかしそうに顔を赤らめた。
 どこかの部屋で金柑がしきりに鳴く声がした。

「何だ、あいつ・・・。おい、金柑!」

 愬夜は部屋から出て行き、漣と四季の二人が残された。

「四季くん、聞いてもいい?」
「何を?いいけど。」
「愬夜のこと好き?」
「うん、好き。」
「どれくらい?」
「すごく大好き。」

 この上ないほど幸せそうな笑顔で、愬夜のことを好きだという四季。
 その姿を見て、漣も笑顔でこう言った。

「そう、良かった。」

 そのうちに愬夜が金柑を抱きかかえて戻ってきた。

「愬夜、本当に幸せですね貴方は。」
「何がだ?」
「いえいえこちらのことですよ。ねぇ、四季くん?」
「?」
「じゃぁそろそろ僕は失礼しますね。」

 二人の邪魔になってはあれですから、と言いながら漣は立ち上がる。

「漣さん、また来てね?」
「うん、また来るよ。・・・愬夜。」
「ん?」
「ちょっと。」

 漣に手招きされ、耳を貸すように言われた愬夜はその言葉通りにする。

「四季くんを泣かせたりしたら承知しませんからね。」
「な、何だよ。」
「それから、四季くんばかりに構って僕のこと忘れないで下さいね。」

 いたずらっぽく笑った漣に、愬夜は苦笑いで答えを返した。
 
「それから四季くん。」
「何?」
「愬夜に何か嫌なことをされたら僕に連絡してね。」
「う・・・・うん、わかった。」
「何だ、てめぇは。」
「それからお幸せに。」
「なっ・・・・」
「それじゃぁ、また来ます。ばいばい、四季くん。」
「ばいばーい。」

 漣が帰った後、愬夜は居心地が悪そうにしていた。
 
「四季、お前何か言ったのか?」
「何も言ってないよ。ただ愬夜が大好きだよって。」

 はぁと溜息をつき、愬夜は四季の肩を抱いて家の中へと戻った。 
 
 出会ったころは春穏やかだった日差しも、今では眩しい初夏のものへと変わっていた。
 これから二人の新たな生活が始まろうとしていた。



 


アクセス解析 SEO/SEO対策