ある夜、僕は空を飛びたいと思った












 クレイヴィングボーイ











 あと1時間もすれば電車がなくなってしまうような時間に、僕は一人で歩いていた
 歩道橋の上から車の波を見下ろす
 ぼぅっと眺めていると、光がとめどなく溢れるその場所は異世界であるように思えた
 吸い込まれるような感覚にとらわれる

 フラフラと歩道橋の階段を下り、アスファルト製の地面に降り立つ
 ここからあの異世界へ飛び込んだら僕はどうなるのだろう?

 けたたましいクラクション
 驚きに歪んだ運転手の顔
 舞い上がる僕の体
 ドラマのワンシーンのようなその想像は、不思議と僕をわくわくさせた







 そうすれば空を飛べる、本気でそう思った







 右、左と足が進んでいく
 勢いよく通りすぎた車は僕の前髪をなびかせた
 歩道と車道の丁度境目の段差にさしかかったとき、僕は誰かによって現実に連れ戻された

「何やってんだ?」

 振り向けば、20代後半と思われる男が立っていた
 僕が黙っていると、男はポケットから出した紙切れを僕の手に押し付けた
 
「24時間いつでもどうぞ」

 そう言って、男は去っていった
 手に押し付けられた紙切れには『鈴木 080-XXXX-XXXX』と記されている
 僕はそれを鞄の底へと投げ入れた

 その紙切れのせいで、今夜僕は空を飛ぶことが出来なかった


















 それから1週間くらいが過ぎて、僕はまた空を飛びたくなった
 バイトは休まないでちゃんとこなしている
 だけど大学はほとんど行ってない

 そんなとき、鞄の中からあの紙切れが出てきた

「あぁ・・・・」

 この紙切れはいったい何なんだろう?
 それ以前にあの男は何者?

 俺は携帯から非通知で、その番号をコールしてみることにした
 何度か短調な呼出音が聞こえて、聞き覚えのある声がした

「はい、もしもし」
「・・・鈴木さんですか?」
「あー、歩道橋の下でお会いした人」

 声を聞いただけで僕のことがわかったらしい
 鋭い人だなぁと思った
 僕はぼんやりとあの日のことを思い出してみる
 











 ・・・僕は男に対して一言も声を発していない

「間違っていた?」
「・・・いえ」
「警戒しないで欲しい。君に渡したのが『鈴木』だっただけだ」

 僕に渡したのが『鈴木』だっただけ、ということは他にも名前があるということだ
 
「あなたは何者?」
「電話をしてきたということは、何かしら思うことがあるということだな」
「・・・」
「話したいことがあるなら会おう、あの歩道橋の下で」

 僕は上着を羽織って外に出た
 目指すのは、あの歩道橋の下、あの男の元















「やぁ」

 あの男だった
 あの日は暗いところで見たせいか、印象がつかめなかったけれど
 見たところはいたって普通のサラリーマン風の男
 別にスーツとかは着ていないけれど、歳も僕より少し上なくらいだと思うし
 黒髪の短髪、どちらかといえば浅黒い肌、背丈は180cm超
 
 僕は頭を軽く下げて、男を上目遣いで盗み見た

「どこかでゆっくり話そう」

 この男に自分のことを話していいのか、今更になって不安を感じてきた
 僕が動かないでいると、男は笑って振り返った

「別に殺したりしないから」
「・・・・はぁ」

 





 男に連れられて、僕は近くの喫茶店に入った

「で、用件は?」
「・・・・・」
「あぁ、名前教えてくれる?」
「街澤飛行(まちざわたかゆき)です」
「ありがとう、俺は鈴木だ」
「・・・それ、本名ですか?」
「違うよ」

 あっさりそう返されて、僕の心は少々の戸惑いを覚えた

「信用できないかい?」
「・・・別に」

 この男に話したとしても、僕の何が変わると言うのだろうか?
 だったら別に名前なんて大したことじゃない、そう思うことにした

「じゃぁ続きをしよう」
「空を・・・」

 そこで僕の言葉が一度途切れた
 男が不思議そうな顔をして、続きを待っているみたいだったから、思い切って口を開いた

「空を、飛びたいんです」
「・・・鳥みたいに?」
「そうじゃなくて・・・その・・・」
「車に跳ねられて?」

 男はニヤリと笑って僕を見た
 図星をつかれた僕は、ただあっけにとられるばかりで何も言えなくなってしまった

「・・・・・・」
「あの夜は俺に飛ぶのを邪魔されたっていうわけ、か」

 そうか、そうか、と男は口の中で呟いた
 僕は何でわかったんだろうと首を傾げる一方で、
 面識のない彼に自分の心の中を見透かされたような気がして、悔しくもあり腹立たしくも思った

「何で空飛びたいの?」
「・・・自分でもわからない」
「でも飛ぶならさ、ビルの上から飛び降りたりするほうが、滞空時間長くない?」
「・・・落ちるんじゃなくて、飛びたいんです」

 いつの間にか、男のペースに乗せられている僕がいる
 自分の話をこの男に話す義務はこれっぽっちもない
 なのに話をしていると、心の中が整理されていくような気がした

「あ、そう・・・毎日がつまらない?」
「・・・はい」

 つまらない、そう思い続けると、僕は決まって空を飛びたくなる
 飛ぼうとしても、結局は飛べないから、僕はまた日常に戻っていく
 それを繰り返して、繰り返して、もう半年ほどになるかなと思う

「恋人は?」
「いません」
「結構格好いいのにね、意外だ」
「そうですか?」

 男はコーヒーを口に運び、それからパフェに手を伸ばした
 僕は自分の紅茶に少しだけ口をつけ、重々しく喉の奥へと流し込んだ
 男は甘党みたいだった

「バイトは?」
「してます」
「何のバイト?」
「ファミレスと、たまに居酒屋で」
「居酒屋は不定期なんだ」
「友達のヘルプで入るんで」
「あーそうなの。大学は?・・・あ、大学生だよね」
「あまり、行ってません」

 他愛もない会話だ
 だけど、そんな他愛もない会話さえ、僕にはとても久しぶりで、、、それでいて新鮮だった

「ふーん・・・そうか」

 ウェイトレスが、コーヒーの御代わりを運んできた
 そこで僕たちの会話は一度中断されることになった
  
「で、どう?」
「どうって?」
「俺と話して、少しは楽になった?」
「・・・はい」

 確かに、楽になった気がする
 なんだか、男、いや鈴木さんは不思議な人だと思った

「こういうこと、よくやってるんですか?」
「うん、まぁね」
「そうですか」

 僕だけが選ばれたのでないことを改めて実感させられると、少し悲しくなった
 そうであるなら、僕が鈴木さんと話す機会はもうないかもしれないんだ
 きっと、僕はまた空を飛びたくなる

「紅茶、飲まないの?」
「え?・・・あぁ」

 僕は殆ど口をつけていない紅茶を持て余し気味に、スプーンでかき混ぜた
 その濃いオレンジ色の水面には、揺らいだ僕の顔が映っていた

「飲まないんだったらそろそろ出ない?」
「・・・はい」

 お会計は、それぞれ別で済ませる
 レシートを二つ折りにして、ポケットの奥へとしまった
 余計なことだけど、鈴木さんの財布は妙に厚かった

 喫茶店から出て、僕たちはあの歩道橋へ逆戻りに道を辿る

「街澤くんは、お酒飲める?」
「少しなら」
「今度、飲みに行こうよ」
「・・・えぇ」

 鈴木さんに初めて名前を呼ばれた
 それでもって、飲みに行こうと誘われた
 
「嫌ならいいけど」
「いえ、そんなことないです」

 少しだけ嬉しかった
 また鈴木さんに会って、話ができることが
 それまで、僕は空を飛ばない・・・かもしれない














 数日後、約束通り鈴木さんと飲みに行った
 鈴木さんは、すごくお酒に強い人で、飲んでも飲んでも酔った気配を見せなかった
 僕はそんなに強い方じゃないから、ビールとチューハイだけにしておいた
 
 帰り道、僕たちはあの歩道橋の下で別れた
 
「さよなら」
「じゃ、またね」

 そう言って別れ際に、僕は鈴木さんにキスをされた
 驚いて何も言えなくなった僕を置いて、鈴木さんはさっさと帰ってしまった
 きっとポーカーフェイスだからわからなかっただけで、鈴木さんはかなり酔っていたんだ
 もしかしたらキス魔と呼ばれるような人なのかもしれない
 僕はそう言い聞かせて、そのことをうやむやにした

 明日はバイトがあるから、早く帰らなくちゃいけない
 そういえば鈴木さんは「またね」と言っていた
 僕が空を飛ぶ日が、どんどんと先延ばしになっていく











 気がついたら、僕と鈴木さんは恋人になっていた
 好きだよ、そう言われたら頷く以外のことができなかった
 理由はたった一つだけ、僕も鈴木さんが好きだった
 未だに本当の名前を知らないくせに、プライバシーに関することは何一つ知らないくせに
 僕は鈴木さんが好きで、一緒にいたかった

「最近はどう?」
「ん?」
「空、飛びたい?」
「あんまり」
「そう・・・絶対じゃないんだ」
「・・・じゃぁ絶対」
「じゃぁって何だよ」

 そう言って鈴木さんは笑った
 こうしているだけで暖かい、心も体も全部
 鈴木さんといるときだけ、僕は暖かく感じるようになっている



 ある日、雪が降った
 東京にしては珍しく、細かい雪が朝からずっと舞っていた
 地面にも本当に少しだけど、ふわっとした雪が積もって、足跡が残った
 去年は殆ど降らなかったから、雪が降ってちょっと楽しい
 今日も、僕は鈴木さんと会う
 
「時間・・・」

 バスも電車も徐行運転をしていたせいで、約束の時間よりかなり遅れてしまった
 東京は、少し雪が降ったくらいでも交通機関に影響が出てしまう
 でも、みんな雪を嫌がる様子もなくて、コートについた雪を払いながら、
 目的の場所に向かって、バラバラに散っていった

「鈴木さん」

 鈴木さんは、待っていた
 雪が舞う中、傘をさして、そわそわしながら待っていた

「あ・・・」

 僕を見つけた途端、なぜか鈴木さんは安心したように息を吐いた

「どうしたの?」
「なんか、嫌な予感がして」
「ん?」
「携帯、通じなかったから」
「え?」

 後ろのポケットから携帯を引っ張り出して、ディスプレイを見ると、"着信 5件"と表示されていた

「ごめん、地下鉄乗ってたから」
「そうか」
「どうしたの?」
「落ち着かなくて・・・ごめんね」
「うん・・・大丈夫」

 いつもみたいに食事して、少しだけ買い物をした
 その間も、なんか鈴木さんは落ち着かないみたいだった
 それから時間が余ったから、僕は鈴木さんの家に行った

「なんか今日、変だよ」
「自分でもわかってる」
「原因は?」
「夢」
「夢?」
「昨日、お前が死ぬ夢を見た」
「・・・僕?」

 真っ直ぐと鈴木さんを見つめる
 そうすると、以外にまつげが長いことに気がついた
 それから左目だけがはっきりとした二重で、右は奥二重だった

「・・・それから、お前を抱きたい」
「・・・・僕を抱きたいの?」

 恋人にはなった
 たまにだけど、キスもした
 でもセックスはしなかったし、しようとは思っていなかった

「嫌か?」
「嫌じゃないけど」

 僕はまた流されるようにして、鈴木さんに抱かれた
 恋人になったときのように
 鈴木さんは、セックスが上手かった
 他の男の人に抱かれたことはないけれど、鈴木さんはセックスが上手かった
 僕はまた、鈴木さんを好きになった
 空を飛びたくない、絶対に飛びたくない、初めてそう思った




















 好きな人ができたら、その人のために命をかけたいと思った日があった
 でも今は、死にたくないと思う
 ずっと一緒にいたい、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと、ずっと・・・




















「好きだよ」
「僕も、好き・・・ねぇ」
「何?」
「本当の名前・・・教えて」

 思い切ってそう言ってみた
 
「・・・佐武柳二(さたけりゅうじ)」
「・・・佐武さん」
「下の名前で呼んで」
「柳二さん・・・・」
「俺も、飛行って呼ぶよ」
「うん・・・」
「飛行って・・・いい名前だね」

 幸せだった
 こうやって抱き合って、名前を呼び合っているだけなのに幸せだった
 こんな風になるなんて予想なんか全くしてなかった
 
「お前と会った日・・・」
「うん」
「なんか・・・惹かれた」
「僕に?」
「お前以外に誰がいる?」
「ねぇ、何であんなことしてたの?」
「ん?」
「紙を渡したりとか」
「暇つぶし・・・お前と会ってからはしてない」
「本当?」
「本当」

 柳二さんの瞳は、嘘をついていない
 
「もう空飛びたいとか思わない?」
「思わないよ」

 今度ははっきりとそう言えた
 僕の心から空を飛びたいという願望、というよりも切望に近いものが、消えた



















 帰り道、もう深夜12時をまわっていた
 柳二さんは泊まっていけと行ってくれたけど、明日は朝からバイトに行かなくちゃいけない
 だから帰ることにした

 でも後で、帰らなければよかったと、思うことになる
 

 柳二さんは、僕をあの歩道橋まで送ってくれた
 時間が遅くても、車は少しだけど走っている

「おやすみ」
「おやすみ」

 それが最後の言葉だった
 神様はとても残酷な人だと思った

 僕は歩きだす
 歩道橋を上って、道路の向こう側にたどり着くと、
 まだ歩道橋の下にいる柳二さんに向かって軽く手を降った







 
 そのすぐ後に、






 僕と柳二さんの間に、
 






 車が割り込んできて







 柳二さんが







 鈍い音と共に















 空を飛んだ、、、、、

























 雪で滑った車、飲酒運転、点滅した車のライト、へこんだバンパー
 
 救急車のサイレン、何台か止まった車、柳二さんの手、赤い雪

 そして僕の、狂ったような叫び声と涙

 すべてが、少しの時間の間に閉じ込められていた

 そのすべてが、紛れもない現実だった







「柳二さん・・・柳二さんも空飛びたかったの?違うよね?」

 違うと言って欲しかった
 いや、そうだよと笑って言ってくれたって構わなかった
 僕の問いかけに応えないより、そのほうがずっとよかった

 僕は走った
 ただ走った、柳二さんに会いたくて

 僕は好きだと叫んだ、叫んで、叫んで、声が枯れた
 涙が、いつまでたっても止まらなかった

 取り壊し予定のビルの階段を、必死に上って、屋上に出た
 風が吹いて、マフラーが片方ほどけた

 前に柳二さんがこんなことを言っていた





「このビルの屋上からは朝日が見える」
「朝日?僕、見たことないんだよね」
「今度見に来るか?」
「・・・うん」

 何でそんなこと知ってるの?
 そう尋ねたら、昔このビルが俺の仕事場だったのさ、そう言われた
 窓にはうっすらだったけど、「弁護士事務所」そう書かれていた
 僕は、深くは追求しなかった





 結局あの約束は果たせなくて、僕は残された

「朝日、一緒に見たかったよ」

 もうすぐ日が昇るのか、空がうっすら白くなり始めている

「手を広げて受け止めてね」

 あるようでないような、破れたフェンスの向こう側に足を踏み出す
 大きく息を吸って、僕は瞳を閉じた
 





「あの夜は俺に飛ぶのを邪魔されたっていうわけ、か」

「今度、飲みに行こうよ」

「落ち着かなくて・・・ごめんね」

「昨日、お前が死ぬ夢を見た」

「・・・それから、お前を抱きたい」

「好きだよ」

「飛行って・・・いい名前だね」

「おやすみ」






 僕は足を一歩踏み出した
 柳二さんが、すぐ目の前にいて、抱きしめてくれるような気がした











 やっぱり僕は空を飛びたかったんだ




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